ふらふら生きつつふらふら書く

情報処理技術、演劇、仕事、生活、他諸々、頭の中を整理するために書き出します。

あこがれの退職記事

今週のお題「告白します」

 

退職した。

ようやく実現した。

2019年に掲げた抱負としては、キリのいい2020年に転職したかったが、能力不足とCOVID-19と、諸々を言い訳に実現できなかった。

退職記事を多くの人がネットの海に書き投げているので、その日が来たら自分もそれに倣って書きなぐろうと常々思っていた。

今どんなに気分がいいかとか、職場のこんなところが性に合わなかっただの、組織の思考停止ルーチンがいかにあほくさかっただの、そういったことを自らの苦しみと併せて片っ端から吐き出すその時を待ち望んでいた。

休憩時間に眺めていたTwitterでも「退職することであらゆるしがらみから解放される瞬間が気持ち良すぎてやみつきになる」というような投稿を見かけ、自分の退職もそれはそれは気持ちいいものだと想像した。

勤務年数はたった数年であるが、私の目の前で「できません」を連呼し続け(いかなる作業にも第一声にその台詞を吐き続けるその姿勢はもはや天晴。どうか貫いてほしい。)、私の課題を増やしてくれる個人・組織に対して、変に負けず嫌いな性根でもって愛情と憎しみが大きく膨らみ、一時体調を崩す羽目にもなった。(まさに自業自得。自分の肉体に失望はした。反省はしている。)

必ずここを出ると決めてからは、自分の手元にたまって腐っていく哀れな課題たちをのみ慈しみ、自分と周囲の人間をずたずたにしながら、自らの目指すところへ向けて片を付けていった。

退職が決まってからというもの、一体どれほどの快感が得られるものか、楽しみで仕方なかった。

退職日、帰宅直後に寝た。

退職翌日、一日中寝た。

退職翌々日、一日中ラノベを読んだ。

以降約2週間、現在に至るまで、退職したことや、退職日まで携わっていたものづくりのことは、すっかり頭から離れて、何の感慨もない。

気怠かった頭と肩が150gくらい軽くなった気はしている。

やっぱり何の感慨もないことはない。嘘をついた。多少はある。

でも、思っていたほどではない。すっきりさっぱり、果てしなく気持ち良いものだと思っていたが、別段格別の快感というものはない。ほどほどに残っていた有休を切らせていただいたので、まとまった時間って良いよなって思う。

たぶん燃え尽きている。

もちろん大変世話になった。おかげさまで、あやふやなまま受けた高等教育でも、それなりに生きていけそうな能力を身につけられていそうだという希望を持つこともできた。そのお返しもいくらかできたつもりである。

お得意のゼロイチ思考で、ぼんやりしていた業務を手近なところから仕分け、片づけた。

誰もが嫌がる新しい顧客も、ある程度は捌けるよう手伝った。

実家暮らしが多いからか、私の部署と比べて所属人数が桁違いだからなのか、多くの同僚が仕事や職場に対して、なぜそんなに他人事でいられるのか疑問で、うらやましかった。もちろん私の人生設計が破綻してるとか(また嘘をついた。そもそも計画されていない。)、仕事の仕方が下手糞すぎるともいえる。

状況的にも、立場的にも、八方ふさがりになりがちであったが、よくあがき、よくこらえた。

数年と続いた苦しみからようやく解放された。

自分によくやったと言ってあげよう。

それだけである。

書き出していて気付いたが、要はもう思い出したくないらしい。 

何もかも能力不足だった。自らのツケ払い。未熟だというだけのこと。

仕事を片付けるために、諸々の実務的なテクニック・世渡りを教えてくれたおじいちゃん先輩はじめ、先達諸氏には感謝している。

引き続き生きていくために、ありがたく、盗ませていただいた技を行使していきたい。

今はできる限りとっととあの世へ行きたいと思っている。

人生が辛く、苦々しく、悲しみにあふれていることに関しては、ずいぶん腑に落ちてきた。

ヤマシタトモコ作「違国日記」の槙生ちゃんは「せっかくなら苦しんで生きたいでしょ」と言っている。この姿勢を見習っている。

それでも、次の組織ではもうちょっと気楽にやれるようにしたいと思っている。 

脇へ退けてずいぶん経つので若干埃が積もっているが、やれるところから私の「好き」を再開する。

前向きで非常によろしい。

 

 あ~疲れた。