ふらふら生きつつふらふら書く

情報処理技術、演劇、仕事、生活、他諸々、頭の中を整理するために書き出します。

理科と算数のちがい

おじいちゃん先輩に電気を教えてもらっていて最も違いを感じたのは、おじいちゃん先輩と私の基本的なものの見方だった。

電気や半導体といった電気・電子系の技術は、基本的に自然科学に根差していて、今もなお研究が続いて、日々新しい発見がある分野だ、ということを根っこのところでよくわかっていなかった。

素粒子って? | Aihara-Yokoyama Group

素粒子・ニュートリノとは? | 千葉大学 ハドロン宇宙国際研究センター

 

以前、演劇部で一緒に活動していた化学出身の教員A先輩に、

二重スリット実験について、

二重スリット実験:量子計測:研究開発:日立
「世界一ふしぎな実験」を腹落ちさせる2つの方法(竹内 薫) | ブルーバックス | 講談社(1/4)

納得できないと質問をさんざんしたところ、「そりゃあわからんから今も研究が続いてんだ」とブチギレさせそうになってしまったことがある。私の視野がいかに狭いか、よくわかった。

 

自然科学の分野に取り組むにあたっては、どこまでもわからない自然現象を人間がいかに理屈で記述できるか、みたいな、大前提として「わからないもの」を扱っているという姿勢が当然のようにあると思う。
コンピュータにどっぷりつかっていた私は、この姿勢をまるで持っていなかった。

コンピュータはつまるところただの計算機で、とくにソフトウェア技術は、大雑把に括ってしまえば数学に根差した技術だと言える。
1+1ができるなら1×2もできるよと、「1」という積み木の一片をいかに積み上げられるかとか、どんな複雑な形に積み上げられるか、といったことをコンピュータを使ってあれやこれや考えていた。ただ、何を考えるにせよ、「1」が手元にある前提で、それをどのように効果的に活用するかというところに焦点を当てていたので、電気・電子・化学の技術を触るにあたっても、同じノリで「1」に相当するものがあって、それを扱っているものだと思い込んでいた。

 

おじいちゃん先輩や教員A先輩と話していて話がかみ合わなかったり、意見が食い違ったりすることが多々あった。

そうして、「ある程度分かった」の感覚が、おじいちゃん先輩や教員A先輩とは違うということを知った。

 

算数(コンピュータ)をやっていて、「1+1=2」という積み木をつくるにあたって、「1」という積み木の一片が「ある程度分かった」感じだと、積み木を積んでいく途中で何かしら失敗する。なぜ失敗したかを掘り下げれば、「1」をそもそも「2」だと思っていたとか、「0.8」くらいとして扱っていたとか、そういう「1」についての理解が足らなかったという話で、これは致命的だと思う。

そういう「ある程度分かった」感じで1+1をやっても、2にならないのは当たり前だ。

 

でも、理科(電気)を触ってみると、「1」という積み木の一片が存在するってことが「ある程度分かっ」てて、どうやら「1+1=2」は組めるらしいけど、目の前の積み木で実際組めるかはどこまでもわかんないから(厳密に確認するのって大変だから)、とりあえず積み木を組んでみて「1+1=2」ってことが「ある程度分かった」らそれを前提に話を進めて作業を終わる、みたいな感じで世の中回っているらしいということが見えてきた。

 

おじいちゃん先輩や教員A先輩と話して、本を読みだして、ようやくこの感覚の違いに気が付いたのだけれど、この違いが当初大変気持ち悪かった。電気・化学をやるにあたっては理屈の大筋を追っていかないといつまでも先へ進めないのだが、どうしても重箱の隅が気になって仕方のない私からすると、コンピュータは安心感がある。うまくプログラムが動かないなら、自分が分かっていないということがはっきりしていて、何をやり直せばよいかすぐにわかるからだ。

この考え方って生活に大きく影響しているんだけれど、この違いってみんな当然のように認識しているのだろうか。算数と理科をもっとまじめにやっていれば分かったことなのだろうか。そもそもこんなこと気にしないのだろうか。

 

振り返ってみて、国語・算数・理科・社会と分けた人を崇めている。

算数と理科は違う分野なのだということがどういうことか、ようやく意識できて嬉しい。

ところで、国語と日本語は違うって西尾維新先生に聞いたんだけど、何が違うの?

個人・国家で「国」の概念が違うよねってこと?この違いが分かる本を誰か教えてほしい。