ふらふら生きつつふらふら書く

情報処理技術、演劇、仕事、生活、他諸々、頭の中を整理するために書き出します。

エヴァと私

シン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレを書いたつもりは一切ないが、エヴァンゲリオンについて書いているので留意されたい。

 

公式がネタバレ解禁したこともあるし、吐き出せるだけ吐き出す。

どうせ頭を整理することもできないし、すっぱりお別れすることもない。

この作品が終わってしまって、安心したし、寂しいし、嬉しいし、もうぐちゃぐちゃだ。

思いがけず御伽原江良の引退も相まって、やりきれない日々が続いている。

 

私はこの映画を劇場で見て大いに泣いた。

もちろんこの映画で泣ける奴の気が知れないとか、そもそも映画自体微妙だったという人も多いと思う。ただ、ネットには私と同じく泣いた人がいるようなので、その人達とはハグし、お互いに励まし合いたいとすら思う。

 

改めて振り返ると、13歳で出会って以来、16年の付き合いになる。

TV版の初放送をリアルタイムにみていたわけではない。

TV版の初放送が1995年10月らしいので、最古参のファンとは10年もの差があるらしい。

しかし、この作品に向き合うにあたっては、そういった最古参のファンなどそっちのけで、全くこの作品は、私のために、私とともにあった、と誰をも顧みないことを言ってしまう。

その他の作品なら、そういった古参のファンに憧れや敬意みたいなものを抱いて、どこか一歩引いたような心持ちになってしまうが、何分この作品との出会いがあまりに私の人生においてタイムリーで、この作品の歩幅と私の人生の歩幅が合致しすぎてしまったので、最早ほかのファンの言葉は私の耳に届かず、別の目線に立って観ることができないでいる。

 

上述したように、この作品のメインキャラクター達と同じ14歳(シンジ君の誕生日は6月で、私は早生まれなのでまさにこの学年だ)の世代で出会って以来、この作品で庵野監督が描こうとしていた主題と向き合い続けている。

(この主題という観点についても、作品の主題というものが一体どういった対象・範囲なのかとか、練りに練られた各種世界設定といかに絡み合っているかなどといった、ファンの間で議論されている作品に対しての深い考察などというものを完全にそっちのけにして、私の中にのみ存在する主題という確固としたかたちだけが私の作品理解であり、作品の真実になってしまっている。しかしこの主題というのは排他的なものでなく、多くのファンが捉える命題を包括したような、しかしあくまで全体的なものである。そのかたちは、「CLANNADは人生」といった作品を丸ごと飲み込むような一文にも似ているが、しかし私の中にあるその唯一の作品理解は一文で表現することはできず、私の思想・観念に近い概念になっている。私自身の人生や私自身を取り巻く社会環境に対して私が向ける眼差しと、そこから受ける感覚や情緒そのままといっても過言でない。この作品が向き合おうとしているものと、私が今なお向き合っているものとはほとんど切り離せない状態になってしまっている。私がこの作品にずぶずぶに依存してしまっているともいえる。ところで、この作品がけなされたり、こき下ろされたりすることは、TV版の放送以来幾度となく起きていることだけれど、そういった批判や中傷も、それらもどうでもよい。上述の通り、私にとってこの作品は、私の思想の一部であり、作中でも描かれるように、人は理解しあうことはできないということも、織り込み済みだからである。基本的にこの作品は他者の存在から厳重に隔絶されている。)

 

「この作品が好きか?」と問われると、どちらか選ばざるを得ないならもちろん「好き」なのだが、その「好き嫌い」というのも私にとっては少しずれていて、というのも、私にとってその問いは「あなたはあなた自身の価値観が好きか?」というような問いかけと似ているからである。

環境と時間でもって個々人の内に醸成された「価値観」が、各々にとっての「好き嫌い」という枠組みで語られることはほとんどないと思うが、まさにそういった類の問いかけだ。

 

そうして、「なぜこの作品がこんなに私に刺さったのか」を深堀りしようとしてみればいくらでも掘っていられる。それをし始めるといよいよ私は、私のこれまでの人生を一つ一つ丁寧に、その時々における私の欲望と本音と建前とを併せて、ほじくり返さないわけにはいかない。

 

俗にいう名台詞もあらゆるところに散らばっていて、どれもこれもすっかり私の観念・思想に溶け込んでいるのだが、唯一、私の頭に深く突き刺さったまま、その痛みと存在感が消えない台詞がある。

「自分の足で立って歩け」「人は独りだ」という台詞である。ちなみにこれらの台詞は正確でない。アニメ版と漫画版と、いずれも鑑賞しており、オタクならオタクらしく好きな台詞の一つや二つは一言一句間違えず言えるもんだろ、言えないなんて悔しくないのかといったところなのかもしれないが、そんなオタクのプライドなどというものも、この作品に関しては消え失せている。私にとって重要なのは、これらの台詞そのものではなく、物語の流れ、登場人物たちの背景を踏まえて、押し付けられたその思想そのものだからである。私にとってこれらの思想は、ひどく真っ当で、ごく当たり前で、ド正論過ぎるがゆえに、激しく理不尽であり、憎悪する対象なのだが、しかし揺るがぬ安心を内包する心の拠り所である。やはりここでも、これらの台詞に出会ったタイミングが、私の心身の成長過程において極めて適切すぎたと言える。恵まれて飽和した人間関係、初恋と性欲、浅薄な友人関係、いじめる・いじめられるじゃれあい、逃避と没頭、抑圧と沈黙といった思春期真っ只中、これらの思想は私に寄り添い、私を慰めた。一方で、今もなお、私の足を引っ張り、その毒でもって私の頭をもたげる。上述した通り、共依存気味な概念だ。

 

おいおい創作と現実が区別できてないのかよ、というつっこみもあろうが、この作品に関しては、私もそれを否定できないし、むしろ、それほど個人の生に深く根を張るような作品があるということに関心・尊敬を持ってほしいとすら思う。

 

シン・エヴァンゲリオンの公開を機に、TV版、漫画版、旧劇場版、新劇場版を一気にさらった人も多いだろうし、そういった人の中には、この物語が掲げる主題を前に進めるために、一体全体どんだけ時間を使ってんだ、たったこれっぽっちのことに25年もかける意味はあったのか、何が面白いのか全く分からないといった感想を持つ人も少なくないと思う。

 

からしてみても、そういった類の指摘は、実にその通りだと思うし、特に反論もないわけであるが、一方で、これっぽっちの主題にこれだけの時間がかかるというのは、正当に妥当であるとも思う。シン・エヴァンゲリオン劇場版の結末は、大枠できっと多くのファンの予想を裏切らないし、新規ファンにとってもまあまあ順当な終わり方と思う。あまりのあっけなさに、あのビッグタイトルがこんなもんかと思う人がいても仕方ない。

しかし、何度でもいうが、この結末にたどり着くために、登場人物のそれぞれに、ここに至るまでにあった出来事の一つ一つに、このちっぽけな悩みを描くのに不必要なシーン・制作時間は一切なかった。25年の歳月の中で、物語として一向に進展がないことも、実に妥当である。私にしてみれば、このちっぽけな悩みはそれほど重要で、複雑で、私が他者と共存するために根本的な問題だからである。

 

私がシン・エヴァンゲリオンを観て最も嬉しかったのは、TV版、旧劇場版から描かれている主題の焦点は、やはり新劇場版でも寸分違わないと確認できたことである。そうして、長い時間をかけて、ゆっくりではあるけれども、しかし着実な変化を経て、ついに、この物語が然るべき収束を迎えたことが、私にとって何よりのエールであった。私にとっては16年、なかなか変わらない自分にやきもきしつつ、私を追い越す多くの背中を見送りつつ、この作品に引きずられつつふらふら歩いてきて、そろそろ疲れてきたところもあるが、この作品は最後まで私に寄り添い、私を励ました。感謝に堪えない。冒頭書いた通り、この作品とお別れすることはないが、この作品はここで歩みが止まるので、今度は私が手を引いて、この先を歩いていく番だ。いわずもがな、この作品、もとい、14歳の私の手である。

この作品を愛している。出会えてよかった。

 

戌亥とこの引退だけは、まだ考えられない。考えたくない。それにはまだ耐えられない。もっともっと夜釣り配信が欲しい。雑談も好きなんだけども。地獄屋八丁荒らし、はよCDください。