ふらふら生きつつふらふら書く

情報処理技術、演劇、仕事、生活、他諸々、頭の中を整理するために書き出します。

春一番

※以下、エヴァのネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

メリーが引退するって。

 

 

つらい。

わらべだが引退するのは見聞きしていたけど、メリーは完全に不意打ちだった。

なおのことつらい。

 

 

 

推しってのも、推しか推しじゃないかという二元論ではなくて、
存在を知らないところから、
見聞きしたことある、
目と耳で追いかけてしまう、
推しとは言えないがちょこちょこ追いかける、
日常の1部になっている、
生活に必須な存在、
だとか、そういうグラデーションがあると思うのだけど。
わたしにとって、
メリーのオリ曲や歌みたは通勤に欠かせない音楽だし、
メリーの歌声でしか得られない心地よさがある。
とはいえ、わたしは今の今までメリーのメンシに登録していない。
YoutubePremiumに登録したのは、
いぬいをはじめ、メリーやすいちゃんの歌がWalkman的に聞ける環境が欲しかったからだと以前書いた通りで、メンシにあちこち登録しては生きていけないと自制していた。
もちろん、財源にアテがあるならメリーに毎月課金するのだけれど。
この財源管理は、本当に微妙な問題で、固定費とするか否かはやはり大きなハードルがある。

もちろん出そうと思えばメリーのメンシ代は口座から引き出せはするが、
それをやり始めるとそのほかもあれやこれやと出したくなってしまう。
今の収支ではGoogleと1人に固定費を割くところまでで、毎月の収支はもとより、わたしの心身に至るまで、もろもろの平衡がギリギリ保たれている。この誰もが葛藤する問題において、わたしはメリーのメンシを諦めていた。

最近のメリーの配信アーカイブをちょこちょこ見てみても、どぶ森と雑談や料理が主で、歌枠は通常配信ではほとんど機会がなくなっていた。昨年、イップスに陥ったということだったが、昨年末のにじ歌謡祭でメイフで歌っていたし、新しいオリ曲やカバー曲は気長に待つ構えを取っていた。なにせメリーのオリ曲とカバー曲は何度聞いても飽きないタイプのツボ曲ばかりなので、新曲がないことはほとんど苦ではなかった。
メリーに出会ってからもう2年近く立つらしい。エバで初対面して以来、前職での最後の1年と現職の最初の1年は、ほとんど毎日、通勤の苦痛を和らげてくれた。前職場で負の感情にとらわれがちだったわたしの魂を解放してくれる柊キライを教えてくれたし、その魅力的な歌声とカバー曲でわたしを励ましてくれた。hazeは現職の1年目で不安定なわたしを癒し続けてくれた。朝の出勤も昼の休みも夕方の退勤も、わたしの日常を彩り、少しの非日常を提供し続けてくれたから、私はこのタフな2年をくぐり抜けてこれたと思う。いぬいの曲もすいちゃんの曲も、もちろんメリーの曲と同じく私を支え続けてくれているのだけれど、ことメリーに関してはとりわけ柊キライのカバーに力を貰い続けていることが、いぬいともすいちゃんとも違った特別な形で、わたしの生活に必須な存在たる所以だ。

 

推しは推せるときに推せ、と心に刻んで、上述の収支心身のバランスを決め、ある程度の覚悟を決めたつもりではいたが、そんな覚悟などあっさり砕け散ってしまった。
そんなわたしの心づもりはなし崩しになって、今となっては、なぜメンシに入っていなかったのか、そんな愚かなわたしをいつまでも罵っていたくなる。

引退の理由はメン限で話したとのことで、通常配信では触れないそうだ。
なんてことだろう。
わたしは一体、何をしていたのだろうか。
こうなってしまっては、なにもかも取り返しがつかない。
引退理由のメン限アーカイブは今も残っているそうだ、今メンシに入って、理由を確認することはひどく簡単にできるようだ。
しかし、もうはや、そういうことではない。
6月2日以降、メリーのチャンネルが消えるらしい。

メリーが積み上げた日々が、あらかた消え去ってしまう。

きっと私はもうメリーの引退理由を知ることはない。
もしかしたら、その理由の中には、登録者数や、メリー自身の生活、あるいはやりたいことに関する金銭的な課題が、口にしないだけで、あったかもしれない。
VTuberという存在自体が虚構である。いくらでも理由は想像できる。
今となっては、引退理由はもう何にもならない。

 

もちろん、メリー本人がどういう風に引退を決意するに至ったか、知りたくないわけではない。メン限だけのカバーもあったりするだろう。
その意味では、今メンシに登録することには、娯楽としての価値が十分ある。
ただ、この娯楽には触れない。

わたしは、推しを推せるときに推さないという過ちを犯した。
失敗することには徐々に慣れつつある。
失敗したからには、次に間違えないよう、次の成功の糧になるよう準備することが肝要だ。
そのためにも、今、この失敗を心に刻みつけなくては。

 

アニメ版エヴァで、カヲル君がリリスの前でシンジに捕まり、歓喜の歌をバックにそれまでの絵のテンポからして明らかに異様に長い時間、セリフなく、絵面も変わることなく対峙し続け、その後首が落ちる描写がある。
このシーンを最初に見たのは中学2年生中ごろだったはずだが、あの動きのない時間の意味が全く解らなかった。歓喜の歌は音楽の授業で聞いたことあるけど、最も耳に残るメロディではなく、低音が目立つほの暗い印象を与えるメロディが絵の変わらないまま垂れ流れている状態に、何やら不穏さを感じつつも、何を見ているのか解っていなかったように思う。
手元の本棚で初版発行年数を確認してみると、おそらくその2年後くらいに出版された漫画版エヴァ11巻(2007年6月、高校1年生だ)に、アニメ版ではセリフも動きもなかったシーンに相当する箇所で、カヲル君がシンジに語り掛ける描写がある。
ここのセリフが心底胸に響いて、今現在も、こういった考え方をしがちなところがある。
カヲル君は、最後の使徒として存在する自分にとって唯一の自由が、自らの死に方を選べることにあると言い、シンジに自分を殺させるように説く。
割愛するが、このやり取りと漫画的描写が非常に美しいので、ぜひ漫画版を読んでいただきたくお願いする。
その中で、カヲルが期待するのは、自らを絞め殺した感触とともに、自らの存在をシンジに刻みつけることだと宣う。
「君は僕のことをイヤでも忘れられないだろ?今まで君が失った人たちと同じように」
「たぶんね。きっとそうだ。」

 

わたしは失敗した。
これを忘れないようにするためにも、このままメリーのメンシには登録しない。

せめてもの餞に、ボイスを買おう。ブーストもして。

ありがとう。さよなら。お元気で。これからのあなたも自由でありますように。

 

さあ、もう失敗はしない。トワ様のメンシに登録しよう。