ふらふら生きつつふらふら書く

情報処理技術、演劇、仕事、生活、他諸々、頭の中を整理するために書き出します。

週半ば

曜日感覚は徐々に薄らいできたけれど、
これまで何年も積み重ねてきたから、日曜日の夜、寝る直前だけは揺るぎない安心があるね。
遊んでいようが、部活があろうが、受験だろうが、芝居をしようが、卒論直前でも、出張先といえど、
月曜日には少なからず、世の中の再開のために、始まりになるきっかけが何かしらあって、
そこに向けて、あらかたのことが終わっている、あるいはどこかで無理矢理に線を引いて諦めを決心する。そのあと、ようやく一時のあいだ、誰にしても、どこをとっても、まったく用済みになる。
よくできた人々はきっと、月曜日の再開に向けてとっとと寝てしまって、清々しく新たな一週間を始めるのだろうよ。いらんいらん。いらんよそんなものは。月曜日の朝は清々しくなくって良い。気怠いどころか、いつだかの週半ば程度のことで良い。ああ始まったなあなどと気が滅入るくらいなら、せっかく用済みになった自分を好きにしてやったほうが良い。これは結局日曜日の夜に限った話ではなく、何かしら注力していることにキリがついたタイミングで気が抜けるといいよねっていうそういう話になるわけなんだけど、それは今の会社に勤め始めてから顕著になった。学校とか、前の会社やその前の会社だと月曜日の朝は割とシャキッとしましょうとか、人数も多いし、そういうメリハリ付け?みたいなのに付き合う感じになってたけど、今思い返しても結構どうでもいいことだったよね。自分でやり始めた芝居とか、自分の机にたまっていく愛すべき問題達に取り組むと、結局、結果に焦点を合わせれば合わせるほど、ありとあらゆることが、個人の課題と個人の力量に依存して、それはつまり個人のやり方・要領によるじゃんというのを、いまさら、ようやく、ひしひし感じる次第。実家を出るまでぼんやり流され流され生きてきたから間違いないと思うけど、親も学校の先生も多くの同級生も、だれもかれも「みんな」とあわせてやっていきましょうという感じだったし、自分のことにもっと集中しなよと声をかけたり、あなたはどうしたいの?なんて問いかけをする人って本当に思い出せない。そういうことを思い返してみて、私は根っからの、田舎のニッポン人なんだなあと、至極残念に思う。食事を抜いても、夜更かししてまで、心底没頭して、自分のために、自分の興味があることをとことんやるなんて、そんな時間は本当に思い出せない。遊ぶにしても、勉強するにしても、部活仲間が遊ぶっていうのに参加して、親が(親)自身の将来を不安に思ってせっつくから片付けて、という感じだったから、何をするにも常に誰かの存在がついて回っていたと思う。実家を出て、地元を出て、1人でいられるということに感動した。芝居を始めて、1人で結果に向き合う恐ろしさを味わって、何もかもが自らの選択次第であるということを、やっと自分のこととして思い知った。
地方と都市部の教育格差を叫ぶ学生や大人がいたりするが、これはどうにもならんと思う。
どうにもならんというより、何世代も何世代も重ねて、個体間にそういうふうに棲み分けがされ続けて今があるということに他ならないから、これはもう、大自然の中の大きな流れなんだろう。多くの大人もそういうことはわかりきっていながらも、じゃあどうしようかという話をするだろうけれど、大自然的にこのようになりつつあるというのなら、その流れを変えようというのはどう考えても徒労だと結論を出しつづけているに違いなく、うまくいくなら今頃はもううまくいっているにちがいない。
置かれた場所で咲きなさいとかってタイトルの本が話題になったことがあると思うけれど、それを持ち出してくる人も結局、ある程度教育の充実した環境で学べたからこそ、そういう本に価値を見出しているわけで、これもやっぱり高みの見物めいたものを感じざるを得ない。紛争地帯に生きる子供たちにも同じように声をかけるつもりなのだろうか。
地方と都市部の教育格差を叫ぶ学生や大人の主張には大いに同意するし、今後もぜひ頑張っていただきたいが、このためには、今の親世代が意識的に変える必要があるけれども、いや教育費はどこから来るの?っていう出だしのとこで、もうこの世代にすでに格差がついているよねとなって、じゃあ政治でってなったら議員連中は議員連中で充実した教育しか受けてませんし誰も興味ないみたいな。で、議員になるにはまず金を積むところからだってさ。未来永劫、人類は分かり合う気などないということがうっすら見え始めて、ああ、やっぱり真面目というのは全く馬鹿を見るのであるらしいからやめてしまった方が良い。
本当はとか、本来なら、正しくは、なんて投げ捨ててしまおう。僕もそういうセリフが大好きだったけど、今となってはどれもこれもくだらない、あほらしい言葉に感じられるようになった。これも勤め始めてから知ったけど、まことの意味での真実性を持ち出さんがためにこの言葉を使う大人は誰もいない。それどころか、真実や正しさなどというものは、ただの幻想であって、か弱い人間が切望する空想上の概念に他ならないということを、ぺらぺらの責任を背中に張り付けているらしい上司のケツの穴から垂れてくる無意味な作業等を経て散々味わう。だからもう科学を信じるのか、陰謀論を信じるのか、どちらが正しいのかなんて言うことで揉めるのもやめにしよう。陰謀論を信じたい人は自らが罠にかからないことだけに全力を尽くせばいいし、科学を信じたい人は粛々と科学のやり方をやり続けるだけだ。わざわざお互いに干渉しあう必要もないし、これも教育格差と同じく、ゆっくりと自然の成り行きでもって住み分けられていくだろう。きっと国も宗教もそういう風に棲み分けされて来たんだろうよ。しらみとり夫人にて、ゴム農園があると信じてやまない彼女と、自らをチェーホフだと主張する彼は、家賃を滞納していることで大家のいい迷惑になっているが、彼らが互いの部屋にいる限りにおいては、別段、物語も始まらない。出会わなければ面白くはないが、波風は立たない。良いことだと思うよ。公共の福祉に反しない限り、信仰は自由でなくてはならない。
置かれた場所で咲きなさいだとかいうタイトルはクソくらえと思っているし、議員連中はとっとと入れ代われと思っているし、お客様が本当に求めていることは何かという議論も興味が失せたし、コロナなんて無いんだと言うならそれでいいと思うからそういう人達で集まってどこか遠くで仲良く暮らしていてほしい。
本ひまはコロナで重症一歩手前だったらしい。回復して本当に良かった。
戌亥の曲がついに配信された。いつでも歌声が聞けるなんて最高だ。

目下、オチをつけなきゃならん課題をとっとと着地させて、自分の興味を掘り下げたい今日このごろ。オチがつきさえすればなんだって良い。