ふらふら生きつつふらふら書く

情報処理技術、演劇、仕事、生活、他諸々、頭の中を整理するために書き出します。

安かろう働こう

はーひと段落じゃ
また今週も片を付けましたね。
この時間からクレアさんのライブが見れるとほっとするね。
ここがかぐらめあになるとまた違った安堵があるんだけど。
今日はクレアさんで良かった。
ダンスが丁寧で気持ちいい。

片を付けたなんて言うとなにかひと段落したような感じがあるが、別段そんなことはなく、機能をこしらえたりいじくったりすればそれはまたべつの問題を生み落とすきっかけになるばっかりで、何かがすっかり気分爽快に落ち着くなんてことはそうない。今回いじった機能はまさにそういう、落とし前を付ける(付くわけではない)みたいなやつと、品証的言い訳づくりみたいなやつだったんだけども、まあどっちもこれからだらだら問題が続いていく不毛なやつです。

ソフトウェアの使い勝手をどん欲に求めるユーザとなるたけ儲けたいベンダーみたいな話あるじゃん。それ。ソフトウェアに限らず適正な価格って求めちゃダメじゃない?それは神の手が入るとこだよみたいなけいざいがく的な話が直撃するのって最終的に実務者じゃん?買うか買わないかはそりゃ買い手が決めるんだけどさ、だからと言って買い手に合わせ続けると結局どこもかしこも奴隷商やってんのと変わんないよねって話になるじゃん。神の手が介在するのは売り手もある程度主張していくって前提があるからで、それをやめて売価を下げ続けたらそりゃ稼げるもんも稼げんわ。そうすると自分が最低限満足できる価格を提示し続けて、袖のふれあいを増やすしかないんだね。そうしてここへきて営業って大事だなあとなるのね。営業でとれた仕事は片っ端から受けていって、馬の合わない顧客と喧嘩別れしつづけた果てに、前世からの縁みたいな顧客としっぽり関係ができるのを待つ。それでもこれまた前提があって、結局喧嘩別れできる相手が身の回りにどんだけいるのって話になるから、いよいよ集落を飛び出なきゃならんが、山を越えるには念入りな準備と立派な心身がいるぞって、いやいやそれができりゃとっくに集落にはおらんわみたいな話ばかり。そうです。能力が無いからみんなで仲良く片田舎に暮らすんです。それにしたって田舎にゃ田舎のしきたりと力関係があって、弱小とみなされたら村ぐるみでもうずっと弱小みたいなね。仲良くっちゃなんかって身の程をわきまえろということになるんだな。はあ、まあまったく仰る通りですが、あたしはどうにもこれが気にくわんで、というも、この力関係なんていうのは各々の兜相撲の結果とかではなくて、往々にして付き合いが長いか否かというだけの話だったりするところで、つまるところ既得権益アレルギーなんですね。だからあんまりな態度で迫られるとついつい唾でも吐き掛けてやるかみたいな気分になっちまって、どうにも手に負えない。付き合いが長いと何が困るって、もう力関係が出来上がっちゃってて、弱小と見做されていればどこまでも奴隷身分でいなきゃならんというところ。でもそれもこれも仕方なしと腹を括らにゃ永遠に休みなんざ来ない。これくらいこれくらいとお客様は仰るが、その印刷物がばっちり形になってはてさていくらになるかっていうと、ああこりゃ勘定してちゃやってらんない。それでもまあ、お仕えする殿様が最低限の暮らしをやれるだけの駄賃をくださるから、なんとなし息が続いているだけで、売り手なんて意識はまるで芽生えてこない。何しろ自分の殿様がお客様に頭が上がんないんだから、その殿様に使えているあたしが何をかいわんや。そうすると奴隷のあたしにできることと言ったら、へえ、張り切ってやらしていただきますんで、へえ、と薄汚い笑い顔を向けながら、言外にどうか勘弁なすっておくんなせえと、ぼちぼちな念仏を唱えることだけです。それでどうにかなるはずがないとお思いになるでしょう?案外信ずるものは救われるってなもんで、お客様もあたしのみすぼらしさを哀れに思ってくださって、これくらいにしてやろうと、ひきあげてくださるんですね。まあ、もちろん、今後とも宜しく働いてくださいよと念を押されて、ええもちろんでございますとも、何なりとおもうしつけなすってくださいと、何とか今日を潜り抜けるような始末です。なにしろ、そうやって天下泰平と相成るなら、あとのことはどうだっていいじゃありゃしませんか。明日のことは明日考えることにしましょうよ。
なんというかね。一回奴隷がいなくなってみないことには、そのありがたみも、力関係も変わりようがないですわ。あって当たり前になってしまうともうなかなか難しいですね。そうなってしまったら、せめて顧客の数を多く持っておきたいところですが、それは先に言ったとおり、ないものねだりという奴になってしまうんだな。
神様にはぜひ手だけではなく、口もはさんでいただきたい。