ふらふら生きつつふらふら書く

情報処理技術、演劇、仕事、生活、他諸々、頭の中を整理するために書き出します。

空腹感

空腹感が続いている。
これを知っている。
抑圧だ。
進学して、就職して、ある程度抜け出したと思っていたが、また出会った。
依存先を増やすといいらしい。それは人間関係だろうが、趣味だろうが。それが自立するということらしい。自粛期間はそういう意味でも有効に活用されるらしい。そんなに簡単に増やせるなら苦しまない。
本も読もう、音読もしよう、YouTuber・VTuberにハマりもしよう、ゲームもしよう、コンピュータを掘り下げもしよう。しかし。しかし。私を魅了してやまない生の舞台空間は、創ることはおろか、観ることすら、タブーになってしまった。正しい知識と、適切な対策をいくら取ろうが、どうあがいてもリスクが、感染し、させてしまうのではないかというリスクが、頭の片隅にこびりついて離れない。舞台に生きて、舞台に死ぬのだと、どんなに勇敢な舞台人も、きっとそうに違いない。かつてなく、生きることが原始的に感じられている。お上には経済活動と見做されず、ライブパフォーマンスに近ければ近いほど、生きるか死ぬかの瀬戸際に立ち、他者に感染させるリスクを負い、客席はもちろん演出までも配慮したうえで非難され、それでもなお興行しなければ、いよいよ死ぬだけになってしまっている。ライブパフォーマンスを支える鑑賞行為すら、身近な人間関係を悪化させる覚悟が必要になっている。生きるために、本当に必要な他者を、選び始めてしまっている。ネットに流れる個人の感染談を見れば見るほど、ワクチンの供給に関する報道を、現場対応に苦しむ医療従事者個人の発信を、同僚の子供が鬼滅の刃にハマった話を、県の感染・死亡報告を、同僚が子供から無惨様呼ばわりされている話を、インドの病院で1つのベッドに乗せられた2人の患者を、見て聞いて見て聞いて、生で芝居が観たいと、息を上げ他者と目を合わせ声を交わして芝居がしたいと、なんの憂いも後腐れも後悔もなく、言えない。勇気と覚悟と経済力と能力と、私には足りない。私は舞台で生計を立てているわけではない。どこからも感染経路は考えられる。私一人がスーパーや病院へ買い物に出かけるだけで、何十人、何百人と同じ空気を交換する。私1人が舞台を見ようがやろうが、正しい知識と適切な対策でもって、そこに感染はないかもしれない。舞台がなくとも生きていられることは素晴らしいことだろう。送別会なんかをやったために感染した赤の他人を救うべく、連日自らを感染リスクに晒し続ける医療従事者からすれば、私の日常は極めて恵まれているだろう。今、舞台の愛好家はどうしているのだろうか。私はそろそろ気が変になってきた。ライブパフォーマンスはできないから録音する。対面はできないからマイクとイヤホンで声を交わす。アイデアを出そう。今だからこそできる新しい創作をしよう。我慢が必要な時期です。みんな苦しい。自分よりも苦しい環境がある。舞台が無くても生きていける。ありがたい。飯は食えている。仕事がもらえている。ありがたい。ありがたい。でも、一回で良いから久しぶりに芝居がしたい。久しぶりに芝居が観たい。台詞を交わして、交感し、イメージを形にしたい。リアルタイムに創られていく舞台空間に立ち合いたい。でも、その一回で感染したらどうなるのだろうか。隔離・入院する間、愛猫の世話は誰がするのか。動物病院に預けられたとしていくらかかるのか。同僚や同僚の子供に感染したらどうなるだろうか。苦しみ抜いた挙句、死んでしまったら、無惨様の代わりを誰が務めるのか。自らの子供を奪われる絶望は。その苦しみがどこに向くのか。舞台の他にも楽しみはいくらでもあるじゃないか。朗読・声劇は面白い。シリーズの新刊が出た。好きなVTuber同士のコラボがある。愛猫が可愛い。職場で出会った事象を家のPCで掘り下げてみよう。青空文庫は思いがけず読み耽ってしまう文章に出合える。ポケモンスナップの新作が出たらしい。それぞれからふっと視線が外れた時に、どうしても、これではないと感じる。死んでしまっては元も子もない。感染させてしまってからでは遅い。生きていくためには金が要る。ワクチンは数年単位でなければ効果がみえてこない。季節性のウイルスではない。金もなければ能力もない私は、私を育て、励まし、支えてくれたアマチュア演劇が死んでいくのを、眺めている。